「アンタなんか、いなければ良かったのに」

思い起こせば、自分の家族というやつはそんなにお先真っ暗でドン底なものではなかったはずだ。
そう珍しくもない。例えば夫の位置に座るはずの若い男が土を引っ掛けて逃げていっただとか。
例えば妻の位置にあるはずの若い女が避妊を主張しなかったせいで身篭ってしまっただとか。
例えばそうして産まれた子供が、この事実を早々に理解してしまった、だとか。
テレビドラマでやっていれば、まず人気番組の冠は戴けまい。それくらいありがちな事。
お決まりの配役。全部使い古された流れ。
あのまま物語を進めていれば、問題なく珍しさの欠片もない結末で終わっていただろう。
それが自分の家だった。なのに。それなのに。

嗚呼、いつからソレは俺の中で生きていたのかな。






ばしり。思い切り叩かれた頬の悲鳴が鼓膜を揺さぶるのを聞いた。
「っ」
痛い、と言いかけた口元は、耳元から額にかけての髪を掴んできた手によって引き攣らされた。
雨のように降り注いでくる相手の感情の毒素に圧倒されて身体が動かない。
おずおずと見上げると、自分にのしかかっている人物と目があった。
ぎらぎらと感情の高ぶりを示す異様な眼球が2つ。
充血によって、白目の部分にはびっしりと赤い網が張られている。
「っ、痛い痛いいたいイタイイタイ!!」
「そんな目で見るんじゃないっっ!!なんで私ばっかり……!私のせいじゃないッ!!」
 尖った爪先で容赦なく頭皮を削り取られ、今度こそ悲鳴をあげた。
めちゃくちゃに両手を振り回して逃れようとするこちらに対して、相手はぐいぐいと髪を引っ張って
戸口へ引き摺っていく。ふいに解放される
髪の痛み。換わりに感じたのは脇腹の痛み。
家の前に敷かれた硬い石畳に身体が投げ出されたと分かると同時、ばたんと家の扉は閉ざされた。
「母さん」
呼びかけるこちらの声に返されたのは、ドアを蹴りつけるヒステリックな靴音だけ。
「…………」
現場を目撃していたのだろう老人が、気の毒そうな、気まずそうな顔でこちらを見ているのに気づいた。
身体を丸めて哀れそうな様子をしておく。……この方が都合がいいのだ。色々と。
案の定、彼はポケットに入っていたのだろう小銭を傍らに置いて去っていってくれた。
なんて簡単。素敵な人だ。
ひとつ、ため息が出る。とりあえず前髪を手櫛で整えてみれば、数十本はくだらない量が抜けていた。
これでハゲが出来ていればコメディだろうな、と心の中で感想を述べたところで立ち上がる。
舌でぺろりと唇を撫でた。ああ、口の端が切れちゃったな。
さて、今夜は何処で時間を潰そうかな。
自分の母親が、世間で云うところの所謂『騙された馬鹿な女』だと分かるようになったのは
十歳を迎えた頃だったと思う。
十。両手を開くことで示されるその数字。まさに自分の開かれた両手には、受け止めざるを得ないその事実が与えられたのだった。ショックから抜け出した後、最初は可哀想な母親だと思った。
なにせ母はまだ若すぎたのだから。可愛らしい服で着飾り、化粧をして、大通りのカフェで友達とおしゃべりに花を咲かせたいのは当然のこと。子供を産んだことで、それが全部駄目になったに違いない。
奪われたのは時間と、若さと、……何より、金だ。
けれど何時の頃からだろう。次第に母への憐憫は姿を消していった。毎日彼女の愚痴ばかりを聞いて。
感情まかせに当たり散らされて。存在を疎まれていくうちに。
だんだんと替わりにやってきたのは殺意に似た憎悪。
こっちに責任転嫁するな、と思った。全部自分が失敗したくせに、いつまでも過去に帰りたが ってばかりの馬鹿な女、と。気持ちの変化は簡単に目がものを言ってしまうのか、母が「そんな目で見るな」と顔を殴ってくるようになったので、髪を伸ばし始めた。顔が見えにくくなれば被害も抑えられると思っ たから。皮肉なことに、髪を伸ばした自分は母の若い頃に(こころが、という意味で)そっくりらしく、これは 別の方向から怒りを向けられることになっただけだったけれども。


「ランポーネ」
「はい、どうぞ」
日が沈みかけた広場にいたソルベ売りは、店仕舞い前ということで大盛りにしてくれた。
それにほんの少しだけ感謝して、家族が迎えに来たのだろう、ソルベ売りが誰かと話しているのを
横目にその甘酸っぱいピンク色をゆっくり舐めとる。
「お疲れさま。今日はどうだった?」
「まあまあかな」
ありがちな会話。きっと毎日繰り返してるんだろう。
「……あ、あのコが本日最後のお客さんだよ」
その声が示す方向がどうやら自分のことらしい。無視して舌だけを動かしていると、近寄ってきた相手は屈みこんで自分と視線を合わせようとするしぐさを見せた。仕方なく顔を上げる。思いがけないものを目にしてつい手と舌が止まってしまった。
「ありがとうございました。また来てね?」
丸い両目をいっぱいに見開いた自分の前で、母と同じくらいの年齢の女性が微笑んでいる。
いや問題はそこではない。その顔からゆっくりと、視線を下に。初めて見る不思議なもの。
なんだかとても、美しいものが目の前にはあった。
「どうしたの?……ふふ」
このお腹には赤ちゃんがいるの。見たのは初めて?
そっと空いていた手を掴まれた。反射的に後ずさろうとしたが、それより早く腹に押し当てられる。
電流が流れたかと思った。本当に。パンパンに膨れ上がった腹部から手の平を通して伝わってくるその感覚。
 あたたかい。
 やわらかい。
 いきている。
「あなたも、お母さんのお腹の中にこんな風にいたのよ」




***




そのあとソルベは残念なことに、一口も食べられないままトロトロと溶けて手を伝い、肘を伝い、床にピン クの水たまりを作って終わった。彼と彼女と小さな彼(或いは彼女か)が去った後、美しい満月が静かに見 下ろす広場のベンチでのことだ。その間ずっと思いかえしていたのは、自分が触れたあの感覚だった。 自分も、あんな風に。脳裏には母親の歪んだ顔が浮かんでいた。ありえない。しかし同時に、爆発的な熱い何かが胸に溜まるのを感じて咄嗟に抑えつけた。心臓に行くことが出来なかった奔流は瞼の裏を赤く染めたので、満月を仰いで白く塗りつぶした。いけない。良くない。理性が本能にそう告げていた。
 その感覚は、母親に憎悪を抱くときの気持ちにひどく似たもので。
 その感覚は、母親に愛情を乞うときの気持ちにひどく似たもので。
 嗚呼でも違うんだもっと違うんだこれを何と表現するのだろう。いけない。良くない。
きっとこの日の出来事の幾つかは、自分にとって重要なものを孕んでいたのだろうと思う。
だって、思い出すこの日の記憶は、いつだってきめ細かで鮮やかなのだ。
今でもこの日を思い出す度に、口のナカにランポーネの甘酸っぱさが甦るくらいに。
ああ、また食べたいな。

 さて、曖昧なのはここからの記憶だ。

思い出そうにもよく思い出せない。あれはいつ、どうして起きた出来事だったのか。
俺自身に聞いても分からないんだから、世界中の他の誰に聞いたって分かりゃしない。
ランポーネの日から1日後だったのか1年後だったのか10年後だったのか……って、10年後はないか。さすがに。
ある日家に帰ってみれば、見知らぬ男と母がいた。
どちらも布切れ一枚を申し訳程度に身体に巻きつけた格好で。
男はいやな笑みをひとつ自分に向けると、早々に服を着て出て行った。
これだけでもう、この馬鹿な母親がまた馬鹿な男にひっかかっているってのは明らかだったけれども、
その時の俺はそれどころじゃあない。馬鹿みたいに口を開けて母親の足を伝う白いアレを眺めていた。
なんだこの家、馬鹿ばっかりだな。これで母が開き直ってくれて、ついでに俺も彼女を見放していれば、
まだ平凡な結末を迎えられたのかもしれない。ただ、そんな女になるには余りにも母は少女であり、
そして俺も、そんな息子になるには余りにも男だった。
限界まで見開かれていた血走った眼球。口から唾を飛ばして放たれた絶叫。

なんでアンタがかえってくるのよ。わたしがわるいんじゃないわ。アンタがわるいのよ。やめてよそんな めでみないでわたしだって。わたしだってこんなことがいいたいわけじゃない。やめてやめてそんなめで みないで。はやくでていって。でていってよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおお!!

投げつけられた何かが右顔面に当たって衝撃と共に砕け散る。
顔を押さえた手のひらがぬるりと濡れているのに気づいた。
唇を噛み締めて俯いた床には、焼きつくほど鮮やかに染まった赤。
いびつな円が零れては増えていく。吐気が止まらない。いけない。良くない。
この強すぎる赤色は、自分が必死に押えつけてきた何かを簡単に解き放ってしまう。ああ、やめて。
母さん。それ以上言わないで。
お願いだよ。

「アンタなんか、いなければ良かったのに!!!」

 場面はそこで切り替わる。
 家の中には俺だけになっていた。俺は身体を揺らしながら自分の下にいるモノに言った。
 かあさん。
 気づけば俺は彼女の腿を押し開き、俺のペニスをそこに沈めていた。
まだ硬直が始まっていなかったそこは柔らかくて温かく、そしてぬるついていた。
心臓が細かく痙攣しているような気がするのは、吐き気のためか悦びのためか。
えもいわれぬ感情に締め上げられた喉を震わせ、白い太腿に残る白い液体の跡を見つめた。
ナカをただ掻き回す。機械的に腰を揺らす。その行為が俺の意識を置きざりにどれくらい続けられたかは
わからないが、しばらくして俺は、ぽつりと、欲しいのはこれではないと思った。とてもよく似ているけれど。
これは別の男に汚されてしまったから。何かもっと決定的な、自分だけのものが欲しいんだ。
自分と彼女のためだけの。ふと自分の右の頬を液体が伝う感触にびっくりして、でも涙じゃなくて
傷口からの血だとわかる。
ぽたり、と彼女の腹の上に落ちた。
もう既に彼女自身の血で真っ赤に染まっていた腹の上に落ちた。
『ひとつになりたいの?』
その時聞こえた声が、痺れたガキの思考回路が生んだ幻聴だったとしても、或いは神様だの悪魔
だのの声だったとしても、自分の持っていた言葉なんてひとつしかなかったのだ。
誰にも責めさせやしない。俺の唇は魔法を唱えた。
「も ち ろん」
 と。
次の瞬間、彼女の腹は膨れ上がった。色風船が空気を入れられたみたいにぐぐぐっと。
がりがりでぺったんこだった母の腹は、乳房よりも高く膨らんで、いつかのソルベ売りの妻の腹のようになった。
いやあれ以上に膨らみ続けた。驚いて身体を離した俺の目の前で、それは腹部の皮膚を波立たせ、
ゆっくりと蠢き、そして……裂いた。ありとあらゆる臓物を周りにぶちまけて、母の腹を裂いた。

『はじめまして』

最初に降ってきたのはお上手な挨拶。
『おとうさん、どうすればいいですか?』
 初めからとてもおリこうで。
 瞬きをひとつ。それから俺は、これが「そう」なんだなと思った。なるほどきっとこうやって産まれてくる に違いない。
だって「それ」は腹にいるんだろう?気持ちイイことして、血を混じり合わせ、これは女の腹から出てくるんだ。
俺はとても満足な気分になって笑った。顔にも飛び散った血やらがこびりついていて、少々やりづらかったけど。
「……可愛いコ。お前に名前をつけてあげようね」
『なまえ?』
「そう。お前は今日からベイビィ・フェイスだ。愛しい我が子」
『はい、ありがとう。おとうさん。わたしはベイビィ・フェイス』
 ああなんて最高。俺は本当に欲しかったものを手に入れた。

すっかり陽が落ちた外はめそめそ泣いている細い雨だった。どっちみち濡れているのだからと傘も 持たずに外へ出る。
『どこへいくの、おとうさん』
「さあどこだろう。それよりベイビィ・フェイス、お前空に浮くことが出来るんだね」
『はいできます』
「おりこうさん」
『うれしい、おとうさん』
行く当てなどないままに適当に狭い路地を選んで歩く。心細さといった類いのものは感じなかった。
一人は好きだし、ましてや俺は一人ではなかった。まるで幽霊のように夜の道を奥へ奥へ進んで、
普段は行かない遠い地区まで。壁に貼られて剥げたポスターの前で足を止める。次はどっちへ行こう。
右か左か真ん中か。
「――――――」
 ふいに雨の音しかしなかった路地裏に、別の何かが倒れる音が割り込んできた。
思わず周りを見渡すと、ベイビィ・フェイスがこちらの服の袖を引っ張ってくる。
『あっち』
 指さされた右手の方向には、曲線を描いた暗い路地があった。雨が段々強くなってきていた。
もう雨の音以外は聞こえない。額を拭って雫を払ってから、さほど何も考えず右の路地へと近寄った。
そしてひょい、と覗き込む。
「っ」
「わ」
 どん、と軽い衝撃で飛び出してきた人間と鉢合わせた。よろけた身体を立て直そうと壁に手をついた 自分と、
ぎょっとした顔の相手との目が咄嗟に合う。少しだけこちらより背の高い少年。チリン、と石畳に金属が落ちる音がした。
「びっくりしたぁ。……大丈夫?」
「なっ…てめぇっ……!?」
 随分と過剰な反応だ。俺はお化けじゃあないのに。一体なんだってそんなに息をきらして。
背伸びをして少年の肩越しに路地裏を覗き込んでから、後ずさりをした彼に微笑みかけた。
「大丈夫、俺はなにもしないよ。怖くないよ」
「こっちに来るんじゃねェッッ!!」
少年は追い詰められた小動物の表情で怒鳴った。雨で曇ったメガネのレンズを、服の袖で拭いながら。
「なにがそんなに怖いの。俺と君、何も違うところないでしょ。ただちょっと夜中の路地裏で出会ってぶ つかっただけじゃない」
「うるせえ……!」
「もしかして俺が上から下まで出血大サービスだから?でもこれ俺の血じゃないから安心してよ。…… あれ、もしかしてだから駄目なの?」
 首を傾げて手を伸ばす。
「っ」
「でもそれで怖がるなんておかしいってば。だってそうでしょ?俺が血まみれだから駄目だなんて、そん なことおかしい。君だって血まみれなんだから」
 思い切り地面に突き飛ばされる。
 水音も高く尻餅をついた路地裏の向こう、少年の向こうに仰向けに倒れて死んでいる男が見える。
多分死んでいるで正解だろう。左胸からあれだけ血を出して生きているなら話は別だが。
「クソッ、クソッ!!てめえもブッ殺してやる!!」
 彼はぶつかった時に落としたナイフを拾い上げた。ああまったく、どうしてそんなに怯えるんだろう。
大丈夫だって言ってるのに。
「ベイビィ」
『はい、おとうさん』
あらかじめ上空に浮かばせておいたベイビィ・フェイスが、呼びかけに応えてナイフを奪い取った。
おりこうさん。ちゃんとお前はやるべきことがわかっているんだね。
「っ……な、んだよコイツはッ!?」
彼は俺の子供を見て引き攣って驚いた。俺は笑いながらまた立ち上がる。コイツなんだか面白いな。
ちょっとキレすぎだけど。なんか、イイ。笑ったことがムカついたのか、また睨んでくる相手に俺は訊いた。

「ねえ、アンタ名前なんていうの?」





「……あの時のギアッチョ可愛かったなあ……」
「あァ!?」
 ソファの斜め向かいでテレビを観ていたギアッチョが、目からビームでも出しそうな形相で俺を睨んだ。
地獄耳め。ちょっとこのクッション薄すぎるよ。こんな薄くて小さい面積で、どうやってコイツのビームを 防御しろっての。
「なんでもなーい」
「ンなわけねぇだろうがッ!!メローネてめー、この俺を誤魔化せると思ってんのか!?」
 そんなこと思ってもないとも。でも誤魔化せないとも思ってないとも。俺は心の中でだけそう言って、
彼お気に入りのドラマが流れ続けているテレビを指さす。ギアッチョは見逃したシーンでもあったのだろう、 怒鳴りながら俺が抱えてるクッションよりはまだマシだった方を殴りつけた。なるほど、こうやって全ての クッションは世間の圧力に押しつぶされていくわけか。
「ンのクソ野郎ッ。お前が余計な口きくからだぞ!」
「はいはいごめんごめん」
 俺はキャンディーの包みを剥いて口に放り込む。甘い。彼の横顔をこっそり見て、やっぱり今も可愛い なと思う。口のナカで飴を転がした。
 ふと服の肩口を引っ張られた。上を仰げば、そこにはどことなく心配そうな顔をした我が子の姿。
どうしたの?…ああ、お前は俺の考えてたことを知ってるもんね。大丈夫。お前は何も心配しなくていいんだよ。
『おとうさんおとうさん』
そう、心配ない。俺は今しあわせなんだから。
繰り返し言い聞かせると嬉しそうになる、ベイビィ・フェイスの顔。そうだ、それでいいんだ。
俺にはお前がいて、お前には俺がいるんだから。俺たちは親子であり、同じ存在なんだから。
だいすきだよ。
ギアッチョに聞かれたらまたうるせえって怒られるから、思うだけにした。
ついでにこっそり、クッションに隠れてキャンディをあげる。
『おとうさんおとうさんおとうさん。おかあさん』
交わしたキスはあの日のランポーネの味がした。






『還ろう。孵ろう。』


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語ル死ス」の千歳さんから。なんとこの絵を元にしてくださっています!
千歳さんのサイトには演出つきの文章が載っておりますのでそちらもぜひ!
感動しすぎたので掲載許可いただいちゃいました…もう…1番読みたかったメローネの話が読めて幸せです…
メローネの過去をランポーネの甘い味がより一層際立てていて…すごい、これはすごい…
印刷して本棚に重宝してますが何か…!!!
あとギアッチョがかわいすぎてきゃあ…ってなりますこれ…^^
千歳さんありがとうございました!